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あさくら行く!! asakulike情報局

あさくら=0946地域の情報を網羅した情報発信ブログ

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官兵衛さんぽ〜黒田サミットin中津〜

今回の散歩は、大分県中津市にやってきました。なぜこのブログでいきなり中津に飛ぶかというと、黒田サミットが開催されるという情報を耳にし早速参加したのです。
中津と言えば、中津城。当初、九州入りした官兵衛が最初に入ったのは馬ヶ岳城(行橋市)でしたが、山城で城下町をつくることができず、中津城を作ったのでした。
 
中津は、豊前国のほぼ中央に位置し、周防灘に流れ込む高瀬川(現中津川)に面しており、川を自然の堀として使えるうえ、水陸交通の要所だったとの理由からです。
中津城下町、歴史散策道を歩いてみました。城下町にはそれぞれ町名が付けられ、その中の寺町沿いに散策道が整備されています。寺町にはその名のとおりお寺が多い地区で、静かな佇まいをみせています。

その中でも最初に目を引くのは、赤い壁のお寺です。これが「合元寺(通称:赤壁寺)」です。官兵衛が豊前に入国した際に最後まで抵抗した宇都宮鎮房を討ち、このお寺で待機していた重臣たちを殺しました。その時の血が何度塗り替えても染み出てくることから、遂に壁を赤色に塗るようになったと言われているそうです。
次は、円応寺です。官兵衛による開基で、真誉上人の開山。黒田氏が福岡に移った後も細川氏など歴代藩主に大切にされたお寺だそうです。その次は・・・というように本当に通りに面して、お寺が多い通りですね。
西蓮寺の開基光心師は俗名を「黒田市右衛門」といい、黒田官兵衛の末の弟です。父職隆の逝去に伴い出家したといわれ、官兵衛をしたい中津に移り、天正16年(1588)に当寺を開山したそうです。
この通りを、しばらく行くと福沢諭吉旧邸がありました。福沢諭吉といえば一万円札。記念館にはその足跡をしめす様々な資料がありました。
その後は、一路、今回の目的地でもあるサミット会場(中津文化会館)を目指します。会場につくと、沢山の人・人・人。ゆかりの地それぞれ幟を立てPRを行っています。すでに沢山の商品(お土産)がありますね。もちろんパンフレットコーナーも。ドラマを観光へ活かすことの意気込みが感じられますね。
サミットには、中津市長、長浜市長、瀬戸内市長、姫路市長、福岡市長がそれぞれ列席し、パネルディスカッションが開催され和やかな雰囲気でした。本日の目玉は、大河ドラマの中村プロデューサーと女優の黒木瞳さんとのトークショーでした。撮影は順調で、撮影での裏話などいろいろと話していただきました。

いよいよ、今年も残り僅か。ということは、大河ドラマの放送が刻一刻と近づいているということですよね。
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官兵衛さんぽ〜東峰村 高取焼宗家〜

今回は、朝倉市の隣、東峰村(小石原地区)を紹介します。
小石原と言えば、小石原焼。民陶の里として有名ですね。

そこにある、高取焼宗家十三代高取八山さんを訪ねました。

 ちょうど、紅葉の季節でとても風情のある場所です。

奥に入ると、ちょうど登り窯の窯焚きの最中でした。貴重な機会に遭遇できてとてもラッキーです。

そこに鎮座するのは、5段の巨大な登り窯。煙突から登る煙がのどかですね。

早速、登り窯を見学。窯の上にはお供え物が。火入れをする時の儀式でしょうか?

ここでお話をして下さったのは、高取七絵さんです。とても綺麗な方でした。
七絵さんのお話では、窯焚きは年2回行っており、1回の釜炊きにおよそ一昼夜を費やすそうです。その間、家族で交代で薪を入れたり色々な作業を行うとのことでした。
一番下の窯から火を入れ、順番に上の窯に火が登って行くそうです。窯の近くは特に熱く、冬場の作業の方がかえって楽だと笑って話してありました。

窯の中を覗かせてもらいました。燃え盛る炎が・・・すごいの一言です。話によると中は1000度以上の高温に。赤い炎が幻想的でした。
窯の中の温度の目安を確認するためのものがこれ↓

ピンぼけの写真ですみません。これを、覗き穴?から見える位置にあらかじめ配置してあるそうです。これが高温になるとふにゃっと頭を垂れるように曲がります。これが窯の中の温度を確認する一つの目安になるそうです。
   
わかりますか?僅かに曲がっているのが・・・確認できると思います・・・たぶん。

こちらの初心者丸出しの質問にも、丁寧に答えて下さる七絵さん。
さすが職人・・・の風格が漂っています。
さらに窯の裏手にある、採取してきた土を細かく砕く「唐臼」も見学させてもらいました。そこには小川の水流を利用した大きな唐臼が・・・。本当に水が透き通って綺麗です。

 
大きいーーー。しかもエコ。凄いですね。先人の知恵ですねーーー。水が一杯になり丸太が跳ね上がる様は迫力十分です。

そうこう言っている間にも、ひたすら作業は続きます。そうそう、こんなに高温になった窯を冷却するには相当かかるだろうなーーーと思って尋ねてみると・・・。
なんと・・・!!!この窯を冷却するのに1週間から10日はかかるそうです。
はぁーーーたまがった。
・・・また次の疑問が。この窯造るの(多分)大変ですよねーーー??
すると・・・この窯自体を作る職人さんも今では少なく、(仮に造るとしても)話では順番待ちの状態で、完成させるのにも半年以上かかるとか。現在の窯もかれこれ30数年経つそうです。大事に大事に使っているそうですよ。(なんせ、家一軒◆☆△!?#・・・)

本物は本当に手間暇がかかるのですね。

ところで・・・この企画でなぜ窯元にと思ったあなた、ここから先をしばしお読み下さい。

(高取焼宗家口上より抜粋)
筑前黒田藩の御用窯であった高取焼は、慶長五年(1600)年、現・福岡県直方市郊外の鷹取山南麓において築かれた「永満寺窯」にはじまります。この永満寺を築いたのが、高取焼始祖、八山(はちざん)です。初代八山八蔵重貞は、士分に取り立てられ、筑前国に入部した黒田長政公により、鷹取山に因んで「高取」の姓を拝領しました。高取姓となってから、八山は慶長十九年(1614)年、内ヶ磯に移り、「内ヶ磯窯」(うちがそがま)で十年間制作しました。雄渾な作風から、次第に瀟洒で洗練された作風となっていったのは、この窯の後半です。徳川三代将軍家光公の茶道指南役・小堀遠州公の指導を受け、「遠州七窯」の筆頭として多くの中興名物を作り出しました。その後、初代・八山は白旗山(現・飯塚市幸袋)に窯を移し、同地で生涯を閉じました。
二代・八蔵貞明は、寛文五(1665)年上座郡鼓村(現・東峰村小石原鼓)に移り「鼓窯」を築きました。さらに、四代・源兵衛勝利は、亨保元(1716)年、早良郡麁原村(現・福岡市早良区)に「東皿山」を開き、一年の内半年は鼓窯に滞在して双方で制作を行う「掛勤」を行いはじめます。以降代々、明治四(1870)年の廃藩置県まで、この掛勤が続きました。

そう、黒田藩の御用窯だったのです。凄く歴史の重みを感じますねー。

このような感じで、歴代の方々の作品がずらり。

そして、その奥には・・・。

なんと、黒田二十四騎の掛け軸が・・・鎮座しています。

また、このような貴重なお手紙も。

こちらは、始祖のお墓をこちらに移された際に黒田家から送られたものとのこと。
うーん。地域にはまだまだ知らない(勉強不足なだけ?)歴史が沢山あることを感じた瞬間でした。

高取焼宗家の前庭には真っ赤な紅葉の絨毯が。思わずシャッターを切り、窯の中の真っ赤な炎を思い出しました。

今回は、窯焚きでお忙しいのに、いろいろと教えていただき本当にありがとうございました。

この企画、これからもゆっくりと更新して行きたいと思います。

高取焼宗家 十三代 高取八山
福岡県朝倉郡東峰村小石原鼓2511
電話 0946−74−2045
ホームページはこちら











官兵衛さんぽ〜三奈木〜

今回の散歩は、朝倉市三奈木地区です。
この地を治めたのは、黒田二十四騎の一人である黒田一成公です。
この方は、加藤重徳の次男として伊丹村(兵庫県)に生まれました。

ここである疑問が・・・なぜ加藤さんが黒田さんに苗字が変わったのでしょうか?

そこにはある物語があります。
戦国時代、織田信長の家臣であった荒木村重が離反し、有岡城(兵庫県)に立てこもって信長と戦うことになりました。この時、使者として説得にあたったのが黒田官兵衛です。しかしながら、官兵衛は逆に囚われの身となり、牢屋に閉じ込められてしまいます。

この時に、村重の家臣として監視役(世話役)をしていたのが加藤重徳という人物です。重徳は親身に世話をするうちに、次第に官兵衛と心を通わせました。
官兵衛は、もしこの城から脱出し、再び活躍するような時が来たら、重徳の子を立派な武士に育てたいと約束していました。
その後、無事に官兵衛は城を脱出することができ、重徳と交わした約束を果たすべく、重徳の次男を養子に迎えました。この人が後の黒田一成公です。

黒田一成公は、武功に優れていただけでなく知行領地の神社仏閣の建立に力を注ぎました。

今回、紅葉の名所として紹介する「清岩禅寺」と「美奈宜神社」もその一つです。

清岩禅寺 朝倉市三奈木15
お寺の中は、ぐるっと散策できるようになっています。また、色とりどりの紅葉や銀杏がきれいな色づきを見せていました。 



黒田一成公のお墓です。

ちよっとした散策が楽しめます。

次は、美奈宜神社です。入り口では、一成公が植えた銀杏の大樹が出迎えてくれます。



立派な門の上には「至誠」の文字が


とても立派な本殿です

境内の紅葉がとても綺麗でした

 

官兵衛さんぽ〜秋月1〜

朝倉市には官兵衛の孫にあたる黒田長興公を初代とする秋月藩がありました。

さて今回のお散歩では、その筑前の城下町「秋月」におじゃましました。

まずは、杉の馬場通りにある朝倉市秋月郷土館から出発します。

ここは、今年の四月から朝倉市の運営に変わりました。
朝倉市秋月郷土館のHPによると、秋月黒田家の遺品関係の資料と土岐コレクションが収蔵された美術館が併設されているようです。
受付の人に少しお話を伺うと、今年は大河ドラマ軍師官兵衛の影響からか入館者が多いとのことでした。受付には、歴史内容の濃い「秋月」のパンフレットが設置されていました。

杉の馬場をしばらく歩くと、秋月城跡が見えてきます。そこにあるのは、瓦坂。
 
名前のとおり、瓦が地面に敷き詰めてあります。昔はこの坂を登り切ったところに、門があったそうです。画像中央の石垣の積み方が違うのがわかりますか?

次に見えてくるのは長屋門です(写真はちょっと下から)。


江戸時代の建造物で、「御館門」(おやかたもん)と称され、藩主のお館への通用門だったそうです。
つづいては、有名な「黒門」です。これは、戦国時代には秋月氏古処山城の搦手の門(裏門)であったものだそうですが、江戸時代に黒田氏が秋月入封のおり、移築して追手門(大手門)としました。廃藩後は、垂裕神社の神門として現在の位置に移転されたそうです。

この門のあたりは、紅葉スポットとしても有名ですね。例年、11月下旬〜12月初旬が見頃です。今年の夏はとても暑かったですが、どんな色づきを見せるでしょうか?

これからは、城下町をふらふらと散策したいと思います。



これは、秋月中学校の武道館ですね。景観に配慮した建物になっています。
 
これは、秋月上級武士の家であった、武家屋敷「久野邸」です。
 
秋月には、いたるところに水路が張り巡らされています。そこを流れる豊富な水が、秋月の往時を忍ばせますね。

細い路地を入って、秋月が一望できる、「時櫓」に登ってみましょう。ここは秋月氏時代にあった二十四の出城の一つだったそうです。ちょっと、知人ぞ知るスポットで景色も素晴らしく遠くに古処山を眺めることもできます。


見晴らしの良いスポットを後にして、さらに散策を続けます。

白壁沿いに流れる「野鳥川」。とてもきれいな風景でした。

ここは、「寅さんの歩いた道」として知られています。シリーズ第28作「男はつらいよ寅次郎紙風船」のロケが行われたそうです。この作品では、目鏡橋や三連水車、原鶴温泉も登場したそうですよ。

当時も今も変わらぬ風景が残る秋月。ぜひ一度、足を運んでみて下さい。秋月は歴史の宝庫です。







 

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